
伏見稲荷大社のお詣りを終え、お土産も買い終えた。帰るにはまだ早い。。この日は宇治・伏見1dayチケットをもっていたので、どこか違う駅にも降りてみようと、しばしホームのベンチで考える。
考えるといっても特に調べる訳でもなく、じゃここで♪と伏見桃山駅に降りることにした。チケットを買ったときにもらったパンフレットの酒蔵の街並みがいい感じだったから、その写真を頭にインプットしてテクテク歩き出すことにしました。

これは、キツネのお面⁈せんべい。食べるときどこから食べるか迷った(・_・;)

商店街には、「ようこそ、港町京都伏見へ」と書かれている。
港町として栄えたんだね。
この商店街を外れ、何となくブラブラしていると、
龍馬の文字があちらこちらで目に付く(・・?あら?もしかして?

数日前にテレビで観た『寺田屋』そのものであった。おーおっと心の中でつぶやく。
ここ伏見は幕末の名残ある街だものね。

これは濠川(宇治川派流)。寺田屋さんの近くを流れている。
江戸時代には、大坂と伏見の間を酒や米、旅行客を乗せ
船がここを行き来したらしい。
その時代の人もこの夕方の美しい景色を見たのかな。。


酒蔵のある場所を歩く。。
この曲がり角って昔も同じだったのかな?なんて思っていたら、着物を着て歩いているような時代とリンクした感覚に陥る。。
なんだか不思議(・・?
プチタイムトリップ(・・?なんてね♡
酒蔵の前で、ひとりの白髪の女性と目が合った。
静かな声で、
ほらあの木、龍みたいでしょ。と云われた。
どれどれ(・・?
えーっと、
ほんまや!龍みたい。。
写真!写真!
あら、もういない。。
すーっと歩いて行ってしまわれた。。

龍さんって時代を動かすのかなぁ。。だとしたらスゴイよなぁ。。

最近、ときどき読んでいる本の内容をメモる。
意識の第7レベル『自己・超意識』
それは「一時的存在の世界」(過去と現在)の完全な認識、そして永遠の存在の領域の完全な認識を意味する。「自己・超意識」は3つの「一時的存在の世界」の時空間や場の制約のある概念を超えている。
「自己・超意識」はひとが言葉で語る能力を超えているが、同時に私たちの「スピリット(霊)・魂・自己」の内在的な特質であり、そしてすべての永遠の存在の究極の状態の意識である。「超意識」はキリスト意識とも呼ばれる。そして真の元型のイデアで、意識の最高の状態である。日常レベルの低い意識は、マインドにある相対的なイデアで構成されている。人類の自己意識は、少しばかりの知性の光から、知性と知恵の最も輝かしい光の状態まで、その範囲は広い。「自己・超意識」は、一時的存在と永遠の存在の状態、両方のすべてへの「完全なる認識、目覚め」である。
(3つの一時的存在の世界は、物質、感情、想念の世界のことかな(._.))
これは~クジラと泳ぐ~という本。

ブラブラしすぎてランチを食べ損ねた。。
じゃ、帰るか♪
~完~
いつもありがとうございます。
すべては大いなる愛の中で。